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御奉仕冥途教の冥途長による妄言の吐き溜め。
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冥途論とは、御奉仕冥途教の皆様と共有したい考え方を、
一応の冥途長である慧琉が好き勝手のたまうという、
週間更新できたらいいな! というコーナーです。
最近ホントに週間更新どころではありません。ごめんなさい。
あと、冥途詩の方に移動しました!

それでは、第四回冥途論をお届けします。

今回のテーマは「信」!
続きは右下の「第四回冥途論」からどうぞー。

さて、「変」「変2」「体」と来て、今度は「信」。
ありふれた言葉であるのはもっともですけれど、
信じるってそもそもなんでしょうか?

あえて辞書には頼らず、仮に定義を考えてみますと……
許容して、受け入れて。
「とあるコト」を「前提」にする。
……というのが近しい意味合いでしょうか。

要は、様々な考えや試行、行動の「土台」に据えるってことですかね。

人の、ありとあらゆる営みは、積み重ねで成っていますから。
信じた物事の上に、さらに次の確からしいことを積み、
繰り返し繰り返し、気の遠くなるような繰り返しで、
経験も、人間関係も、社会も、文化も歴史も組み立てられています。

人の言葉と書いて、信じる。

まぁ、人の言葉は疑ってかかるべきものだとも思いますけれど。
きっと順番的には、
人は疑うもの→だからこそ→信じる
という成りたちなのではないでしょうか。

信じることが土台に据えることなら、
疑うことはその土台を確かめること。

信じると疑う……人にとっての真偽が無かったのなら。
いわゆる動物的な行動しか、取りようがないのではないでしょうか。

何故なら、真実と虚構の間に境界線がないということは、
全部が同じということ。価値も何もないということ。
思考の入り込む隙間がないということ。
すなわち、感覚と本能の命じるままに動くしかないということ。
なのでしょうから。

逆にいえば、人が物を考えられるようになった時、
言い換えれば、世の中に「疑い」を持ち始めた時、
「信じる」ことは、土台として自然に生まれた概念なのでしょう。

ということは。
信仰は実に人間らしい行為なんでしょうね。
人を人足らしめる、「信じる」という概念。
人の言。
初めに言葉ありきとは、よくいったものです。

何だか今回はちょっと哲学的過ぎましたでしょうか。
もう少し実生活に寄せたお話でないと、役立たずかもしれません。

せめてささやかな心の旅路だと思って、お見逃しくださいまし。
以上です!

次回のテーマは考え中!
習慣はあきらめムードですが(ガーン)、なるべくペース上げて更新いたします。
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